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第6話

 

 

 

法医はやる気もなくけだるげな表情で椅子に腰かけ、長い脚を机の上に放り出していた。

机の上に積み上げられた書類がはらりと何枚か落ちたが気にする様子もない。

ぼんやりと天井を見上げているようだったが、その瞳に映っているものと彼の脳裏に浮かんでいるものは一致していなかった。

 

 

 

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それはまるでスローモーションのようだった。

駆け出す背中。

その先に見えるのはフィリップ爺さんの家。

子供の頃、爺さんの家の気性の荒い犬、メルのしっぽを触ってくるという度胸試しが流行ったが、ハウリーは一番にやってのけ、

法医はついぞ達成できなかった。

やんちゃで何でも一番にやってのけるガキ大将のハウリーと、引っ込み思案で体の弱い法医がつるんでいるのを他の子供たちは

不思議に思っていたが、なぜか二人は気が合っていた。

フィリップ老の家にはすでに老人も犬もいなかったが、その家が、崩れる。

 

 

爆風に腕で顔を守り、つぶっていた目を開けると、また、あの光景。

「ハウリー!」

 

 

 

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「ドクターディナリーテガルト殿!」

苛立たしげな声にはっとして顔を上げると、目の前には思いがけぬ客がいた。

「ずいぶ顔色が悪いようだ。陛下のご機嫌取りも大事だろうが、体調がすぐれないのならば少し休まれては?」

「・・・サミール侯爵。珍しいですね、愛娘の危機にも一切顔を出さなかった貴方が、しがない医者の元を訪れるとは。」

法医はいつの間にか額に浮かんでいた脂汗を白衣の袖口でそっと拭いながら、皮肉を返した。

男は日頃法医のことを国王に媚びへつらう他国の田舎者の寄生虫だと言って憚らなかった。

法医は公然と咎めるようなことはしなかったが、気分のいい物ではなかった。

それゆえ、先日は男の妻に八つ当たりをしてしまった。

「嫌味を言う元気があるなら結構。妻も安心するでしょう。」

そう言い放った男の怒気をはらんだ表情に、先日の一件はすべて男の知る所であろうことが想像できた。

「それは良かった。妻君とはなかなか刺激的なひと時を共にさせていただきました。あなたも味わったことのないような、ね。」

嘘は言っていないが、明らかに挑発するような言葉に、男は完全に頭に血が上った。

「この敗戦国の死にぞこないが!陛下の寵をかさに着ていい気になりおって!」

あろうことか、男は法医につかみかかり、恫喝した。

しかし法医はつまらなそうに鼻をならした。

「貴方、そんなことを言いにここに来たのですか?この国の高貴な方というのものは本当に暇なんですね。」

法医の言に男は我に返り、絞り出すようにつぶやいた。

「明日、夕刻に迎えを寄越す。我が家で食事会を行うから、必ず出席するのだ。」

「は?なぜ私があなたと食事を?気でも触れましたか?」

「国王陛下の厳命だ!お前を食事会に誘えとな!娘の回復祝いとお前への感謝の席だ!陛下の命でなければお前など二度と我が家の

敷居をまたがせることなどせぬわ!」

激しく罵られ、どんな食事会への招待だ、と思ったが、王の指示では男も法医も従う他なかった。

「いいな、必ず来るのだぞ!お前のせいで手打ちになるなど御免だ!もしこなければ、私がその首引きずり出しに来てやるからな!」

男は焦っていた。

気まぐれな法医が、もし王の機嫌を損ねるような真似をして、その火の粉が自分に降りかかるのを。

王にとって失敗した者の地位など関係ないということは、この国の者にとって周知の事実であった。

バタン、と大きな音を立ててドアを叩きつけるように閉め、男は去って行った。

「さてね。」

法医はいっそ王の命に背き、食事会とやらに行かずにここで終わりにしてもいいか、と自身の悪夢のような日々を思ったが、これは罰なのだと

考え直した。

簡単に死ぬことなど許されない。

自身の力がそれを物語っていた。

 

 

 

翌日、約束通り夕刻に馬車が法医を迎えに来た。

法医は宴の席よりは幾分カジュアルなスーツに身を包み、馬車に乗り込んだ。

屋敷につくと、往診の時とは打って変わって使用人たちが揃って出迎え、丁重に食事会の会場まで案内された。

テーブルについているのは侯爵の夫人と子供だけで、屋敷の主人はいなかった。

いささか不審に思いながらも席に着くと、無邪気な笑顔をたたえた少女が話しかけてきた。

「先日は治療していただき、ありがとうございました。この間はお話しできなくて残念だったわ。こんなに素敵な方だなんて、お母様も誰も教えて

くれなかったんだもの!」

先日の治療の才に母親が法医を刺した事実は、眠っていた娘の視点からは角度が悪く何が起こったのか見えなかったのか、それともあまりの

衝撃に忘れてしまったのか、少女の笑みには一点の曇りもなかったが母親の方は気が気で無いようで、押し黙ってうつむいていた。

「おや、これは素敵なレディーに見初められてしまったかな。私も捨てたものじゃないようですね。」

あえて夫人の方へ向けていって言いはなつと、夫人は娘に向かってやめなさい、と小さく囁き、ますますちぢこまった。

少女はつまらなそうに口をとがらせたが、はぁい、とつぶやいて、黙り込んだ。

そんなやり取りをしていると、屋敷の主が何者かを伴って現れた。

あれは。

 

 

「やぁ、遅くなってしまい失礼。今宵のゲストをお迎えに上がっていたものでね。」

「ルージェイ家の次女、ミリアと申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます。」

屋敷の主人に伴われて現れた若い娘は、先日の宴で国王の命で引き合わされた貴族の息女、ミリアだった。

娘は嬉しそうにはにかみ、法医の隣の席に着いた。

ゲストの嬉しそうな様子に、主人は満足げな笑みを湛え、法医に言った。

「ドクターお相手にと、特別に招待させていただきました。うちの娘では幼すぎて話にならないでしょうから。」

「お気遣いどうも。私はそちらのレディーでも何ら不服ありませんけどね。」

法医はその仕組まれた食事会に不満を隠そうともせず、主人の娘に視線を送った。

「まぁ!」

と、少女は驚いて母親の袖を引き、今の、聞いた?と口元を小さな手で隠しながらも嬉しそうにささやいた。

母親は苦笑いを返すだけだった。

「さすが国王陛下のお気に入りの法医殿。子供相手でもお世辞がお上手なようだ。ではこちらのレディーにも何か甘い言葉をいただけますかな。」

法医の嫌味も何食わぬ顔でかわし、主人は貴族の娘の肩を軽く押した。

娘の期待に満ちた視線が間近に迫り、法医は逆に背を反らし、距離をとって両手を上げた。

「私は田舎者ですから。女性にかけるうまい言葉を持ち合わせておりません。どうぞご容赦ください。」

一瞬部屋の空気が固まったが、様子を見ていた少女が不満げな声を上げた。

「まぁ!それじゃあ私は女性じゃないってこと?」

その一言が引き金となり貴族の娘と夫人が思わず笑い出し、和やかな空気で食事会は始まった。

食事会は終始屋敷の主人が話をし、皆が相槌をうっていた。

法医以外は。

 

 

食事が終わると、夫人は大人の話に退屈し舟を漕ぎ出した娘を寝かしつけに退出した。

侯爵は法医を煙草に誘ったが、法医はこれでも医者の端くれですからと丁重に断った。

それならばと残った娘と法医を夜の庭を見渡せる眺めの良いバルコニーへ誘い、後は若い二人で、とお決まりの冷やかしを残して一人煙草を

吸いに向かった。

上気したように頬を染めて娘が法医を見つめた。

「今日は貴重な機会をありがとうございます。先日はせっかくお声掛けいただいたのに、あまりお話できなかったのでうれしく思います。」

「いえ、お気になさらず。」

法医は娘の視線に気づかぬふりをして、庭を眺めながらそっけなく言った。

しかし娘は諦めず続ける。

「私、あの後大変だったんです。お友達にドクターと知り合いなのかと問い詰められてしまって。」

「すみません。私などが気安く声をかけてしまって申し訳ない。」

「そんな!ドクターは素敵な方です!お友達も、ドクターはもっとああいう場に出るべきだと言っていました。・・・私も、そう思います。」

「すみません。私は何の肩書きもない他国の田舎者ですから。この国のきらびやかな場には不釣り合いで、気後れしてしまうんですよ。」

押し問答のような会話の末に、不意に娘が思いもよらぬ言葉を口にした。

「・・・レナーリア、ですね。」

「!・・・ご存知でしたか。」

法医は長い前髪の下で思わず目を見開き、娘の方を向いた。

ようやく法医の気を引くことに成功し、娘は続けた。

「隣国ですし、父に少し教えていただきました。」

「それなら話が早い。私は敗戦国の死にぞこない、なのですよ。陛下の気まぐれで生かされている災いの種でしかない。このような者、貴女が

気に留める事はありません。」

不覚にも、昨日侯爵に罵られた言葉が娘の興をそぐに相応しいのではと引用してしまった。

心の中で舌打ちをすると、またしても衝撃的な言葉が娘の口から放たれた。

「戦争だったんですもの。仕方ありません。」

「しかた、ない・・・」

「そうです。ドクターはドクターのなすべき事をなさった。結果、今ここにいらっしゃる。それで良いではないですか。過去ばかりを見ていても

仕方ありません。前を向いて行きましょう。・・・私と」

羞恥に語尾が小さくなりながらも、娘はそっと法医の腕を取ろうとした、が、

「きゃあ」

その手を法医に捻りあげられ、悲鳴を上げた。

法医は冷たく娘を見おろし、自分でも驚くほど低い声で囁いた。

「お前に何がわかる・・・!」

まぶたを閉じれば今でも忠実に再生される、目の前で故郷が蹂躙される様を、目の前で親友が動かないただの物になる様を、この無知な

貴族の娘は知らないのだ。

だからと言ってその無責任な言葉を見逃せるほど、法医の心に余裕はなかった。

否、法医の一番触れてはいけない部分であったのだ。

娘の悲鳴を聞きつけ、侯爵がルコニーに顔を出した。

「ドクター!何を・・・」

顔面蒼白で法医に腕を捻りあげられている伯爵家の娘とそれを冷たく見下ろす法医を見とめると、侯爵は慌てて法医を娘から引きはがした。

法医は侯爵に突き飛ばされ、数歩たたらを踏んだが、自嘲しながら別れの言葉を告げた。

「・・・失礼、こんな無礼な田舎者を招いたことを後悔し、二度と関わり合いにならない事をお勧めします。では、私はこれで。」

前回同様誰に見送られることもなく、法医は一人でさっさと屋敷を出て行った。

バルコニーに残された娘はわっと泣き出し、侯爵は舌打ちをしながら娘の背をさすり慰めた。

 

 

 

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