第4話
よれよれの白衣にぼさぼさの頭でふらつきながら城内を歩く男を、普段の彼を知る者が見たらぎょっとしたであろう。
ダブルディーはそれくらい酩酊していた。
明け方まで若い軍人たちと飲みあかし、彼らと乗合で呼んだ馬車に乗って戻って来たのだ。
彼らは城壁の外の宿舎へ帰って行き、また飲もう、と気安い笑みを浮かべて軽く拳を合わせて別れた。
自室に戻ると鞄をその場で手放し、ベッドに倒れこむ。
こんなに酒を飲んだのはいつ振りだろうか。
王に勧められても、自分は有事に備えて飲まないのだと断っていた。
今日は特に用事はない筈だ。
王のお召がなければ。
体はだるかったが、気分は悪くなかった。
どれくらい眠ったのだろうか。
目が覚めるとだいぶ日が高く昇っていた。
白衣も脱がずに眠ってしまっていたことに気づき、とりあえず風呂に入って着替えようと手をかけた時、ふと嫌な予感がした。
すかさずばっと白衣の内ポケットをまさぐり、財布を取り出し、中身を確認する。
「…ない!」
ダブルディーはとるものも取らず、部屋を後にした。
それまでこの国で彼が走っているところを見た者は皆無であった。
彼にはこの国で執着する物事がなかったからだ。
この国のもの、には。
彼は故国のある物を財布に入れて大切に肌身離さず持っていた。
「くそ、あの時か!」
もし落としたとすればあの酒場での支払いの時しか考えられない。
酒場では稼ぎのいい者がおごるのが礼儀だと勘定を押し付けられたのだが、久方ぶりの悪くない時間に、ダブルディーは
快く請け負った。
馬車の代金はダウェイが払った。
財布を出したのは、あの時だけだ。
幸いな事に、酒場は宿屋を兼業していたおかげで昼日中でも営業していた。
カウンターで愛想のいい笑みを浮かべたふくよかな女将に忘れ物がなかったかと尋ねると、すぐに目的の物を渡してもらえた。
今は亡き国の女神を模した女性の絵が描かれているカードだった。
かつてあった国の若者たちの間で、好意を寄せる女性に似せた女神のカードを絵師に作成してもらい、持ち歩くのが流行していたのだった。
しかし法医の手に戻って来たカードに描かれた女神は、彼の女神ではなかった。
それは大事な預かり物であった。
彼の命より大事な、二度と返すことのできない、預かり物。
ダブルディーはほっと安堵のため息をつき、女将に礼を言って酒場を後にした。
細い路地は昨夜の雨の名残で大きな水たまりがいくつもあったが、法医は特に気にすることもなく上機嫌で歩を進めていた。
すると後方から、「きゃっ」という甲高い悲鳴と続いてバチャン!と盛大に水しぶきを上げる音がした。
なんとはなく振り向くと、10にも満たないであろう少女が水たまりの中でずぶ濡れになっていた。
一瞬少女と目があったが、ダブルディーは何事もなかったかのようにまた歩き始めた。
すると後ろから非難めいた叫び声が投げつけられる。
「ちょっと!か弱いレディーが水たまりでびしょ濡れになってるのに、見て見ぬふりなんて紳士のすることじゃないんじゃない!?」
その慣れた物言いに、ああ、客引きか、こんな小さなうちから少女がそんな事をしているのかと思うと、不憫に思う半面、疎ましくも思った。
こういう手合いには関わり合いにならないに限る。
「・・・か弱いレディーはこんな裏路地を一人で歩かないし、水たまりになんて縁がないと思いますよ。」
そっけなくそう言って、また歩を進める。
「待って!あのカード、大事なものだったんでしょう!?」
「!」
思いがけないセリフに、とっさにまさかこの少女が自分の財布からカードを掏ったのかという考えが頭をよぎり、苛立ちを覚え足を止めた。
「やっぱり!わざわざ探しに来たってことは大事な物だったのね!」
法医がわずかに怒気を帯びた顔つきで振り返ると、少女はまくしたてるように言った。
「先に言っときますけどね、カードは財布から落ちたのよ!私はそれを酒場の外で見てたの!でも酒場に一人で子供がいるのを見つかると
怒られるから、そっとカウンターに置いてあげたの!あのカード、あのまま落ちてたら酔っ払い達に踏まれて今頃ぐちゃぐちゃになってたわ!
どう?助かったでしょ?」
片目を閉じて得意げに微笑む少女に、ダブルディーはあらぬ疑いをかけたことを心の中で詫びた。
自分もずいぶんこの国の卑しい心に蝕まれたものだ、と自嘲しながら、少女に語りかけた。
「要求はなんです?」
「あなた、お医者様でしょう?それも凄腕の!昨日貴族の御屋敷から出てくるのを見たわ!そのまま後をついて行ったんだけど、
酒場に入って軍人と一緒に飲み始めるから話しかけられなくて。私のママを診てほしいの!・・・お金はそんなにはないんだけど。」
少女の言葉の最後は聞き取れないくらい小さくなっていたが、要求は単純な物だった。
「ああ、あなたの上げた水しぶきが私の白衣にもかかったようで、汚れてしまった。残念なことに急いでいたので私はこの通り手ぶらだ。
タオルかなにか拭くもの貸していただけないかな。報酬はそれで結構。」
いささか芝居がかったセリフに、少女は満面の笑みで応えた。
「もちろんよ!うちはすぐ近くなの!こっちよ!来て!」
ダブルディーの手を取って、少女は弾むように駆け出した。
ようやく年相応の顔をしたな、と思ったが、法医はそれを頭の片隅に追いやった。
少女の家は増築に増築を重ね、今にも崩れそうになっている長屋の一室で、お世辞にも広いとは言えず清潔でもなかったが、そこは彼女
たちの聖域であった。
一つしかないベッドには枯れ木のように痩せ細った女性が横たわっている。
肌は土気色で、かすかに呼吸をしているものの、固く閉じた目を開くことはもうないであろうことは医師でなくとも容易に想像できた。
ダブルディーはこの国一の医師であり法術使いであったが、今は愛用の鞄を持っておらず、手持ちの宝玉は白衣のポケットにたまたま入っていた物
が3つ。
女性の症状に、これでは何の足しにもならない事はわかっていたが、法医は施術を行う事にした。
ポケットから赤の宝玉を一つ取り出し、低い声で呪を唱えながら印を結ぶ。
そして最後に女性の上で宝玉を砕くと、きらきらとそのかけら達が輝きながらゆっくりと降り注いだ。
その幻想的な光景を前に少女は言葉を失いながらも、両手を組んで祈っている。
「・・・シリー?」
女性が口を開いた。
「ママ!!」
瞳が転げ落ちるのではないかというほど少女は目を見開いて、ベッドに横たわる女性にしがみついて叫んだ。
すると女性が目を開き、首を回して少女の方を見た。
「シリー、ああ、そんなに泣いて。ふふ、泣き虫ね。」
「ママー!!」
少女はぼろぼろと大粒の涙を流して泣いていた。
ダブルディーはそっと立ち去ろうとしたが、ギイ、と立てつけの悪い扉が音を立てた。
その音で少女が我に返ったように泣くのをやめ、また大人びた口調で彼に話しかける。
「ごめんなさい!私ったらうれしくてつい!ママを助けてくれて、ありがとう!タオル、今用意するわ!ちょっと待っててちょうだい!」
しかしダブルディーはそっけなく応えた。
「いえ、タオルはもう結構です。このような不衛生な場所から一刻も早く立ち去りたいですし、あなたのタオルでは私の白衣はなおさら
汚れそうだ。私はこれで失礼しますよ。お大事に。」
「そんな!」
少女はダブルディーの行為と言葉の差異にあっけにとられ、それ以上何を言うこともできなかった。
彼はそれを是と取り、長屋を後にした。
裏路地を抜け大通りに出たところで乗合馬車を見つけて乗り込む。
風呂に入っていないうえに着替えてもおらず泥水がはねた染みまである白衣に身を包んだダブルディーに、乗り合わせた乗客達は
いい顔をしなかったが、関わり合いにもならなかった。
彼は体を丸めて目を閉じた。
カードを拾ってくれた少女に掏りの疑いをかけてしまった礼と謝罪の為に、ダブルディーはあの場で出来たであろう最良の施術を行った。
治療に使った宝玉は、あの少女がこの先一生躰を売っても稼げないであろう程高価なものだ。
そもそもこの国一番の法医が貧乏長屋に治療に赴いた事自体が奇跡なのだ。
しかしあの女性は二日と持たないだろう。
法術はこの世の摂理を捻じ曲げることはできない。
できるとすればそれはまた別の力。
ダブルディーのそれは、あの親子の為に使ってやることはできなくなっていた。
少女の母親に対する愛情に、触れてしまったから。