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第2話

 

 

 

その部屋は他者の立ち入りを拒むように固く閉じられていた。

好んで訪れるものは皆無であったし、せいぜいメイドが決められた時間に部屋の掃除と洗濯物の回収に現れるくらいであった。

そんなわけでこの部屋にノックの音が響くときは、たいていが部屋の主にとって厄介ごとの訪れであった。

 

 

 

へくしっと小さくくしゃみをし、ぼうっとする頭を支えるのを放棄した彼の体は、今にもずるずると椅子から崩れ落ちそうなところで

どうにか均衡を保っていた。

そこへコンコン、と招かれざる客の訪れを告げるノックが響いたが、今日は誰にも会いたくない、とメイドの出入りも拒否していた

ダブルディーは、居留守を使った。

 

 

 

「ドクター?ドクターディナリーテガルト様、いらっしゃいませんの?」

しかしその客は震える声で室内へ問いかけつつ、カチャリ…と、ためらいがちに扉を開いた。

「ドクター!いらっしゃったのですね!」

髪を結いあげ高価なドレスと装飾品に身を包んだ、一目で身分ある人間であると判別されるであろうその客は、そっと室内を覗き込み、

机の影に沈み込んでいる部屋の主を目に留め、非難を込めた声を上げたが、彼は居住まいを正すこともなくのんびりと応えた。

「おや、部屋の主の許可も得ずに勝手に入室するとはどこのコソ泥が忍び込んできたのかと思えば、恐れおおくもサミール侯爵夫人

ではございませんか。やれやれ、この国の作法というものは私にはなかなか理解しがたいものです。」

侯爵夫人、という高い身分の人間にも一切媚びる様子を見せず、それどころか上からの物言いに夫人は腹を立てたが、彼女の関心事

に比べれば些細な問題であり、それについては気づかないことにした。

彼はこの国の地位に執着がない上に、なんといってもこの国を統べる者の寵を受けているのだから。

「それは…申し訳ございません。はしたない真似をして、お詫び申し上げます。ですが、私の話を聞いていただきたいのです。」

「…。」

まだ若く自身とそんなに年の変わらない品のある女性の懇願にも、ダブルディーはつまらなそうに沈黙するだけであった。

しかし女性はその沈黙を是ととらえ、話を続けた。

「私の娘が、病に侵されているのです。国中の名医と呼ばれる者に診せました。しかし皆首を横に振るばかりで、娘の容体は悪化する

一方なのです。この上は、この国一の名医と名高いドクターに診ていただく他ございません。お願いです、どうか哀れな私の娘をお助けください。」

涙ながらに語る女性を一瞥し、ダブルディーは鼻を鳴らした。

「ご息女が病とはさぞご心配でしょう。どうぞお大事に。残念ながら私は陛下の許可なく治療を行うことはできませんので、お帰りください。」

「陛下の許可は得ております!…ドクターが了承すれば、治療を行うことを許可なさると。」

語尾は聞き取れないほど小さくなったものの、女性は必至で法医に歩み寄り、その脇へ跪き、彼にすがった。

「そうですか、ではお引き取りください。残念ながら私は気分が乗らないので了承いたしません。・・・それにサミール侯爵には一度ならず

煮え湯を飲まされていますしね。」

異国人であるダブルディーが国王の寵を受けて、特別優遇されていることを面白く思わない者は少なくはなく、夫人の夫はその筆頭であったので、

にべもなく断られた。

そもそも女の身で夫を差し置き城内のダブルディーの部屋へ単身訪れたのは、夫の話では彼が首を縦に振ることはないだろうと踏んでの事

であったが、結果はどちらでも同じことであった。

しかし彼女は大切な一人娘の為に、諦めるわけにはいかなかった。

「そんな!娘には何の罪もありません!どうか、どうか一度診察してくださいませ!もし娘を診ていただけるのであれば、報酬は可能な限り、

どんなものでもご用意いたします!」

なかなか引き下がらない必死の形相の女性を横目で見下ろし、今度はため息をついたあと、ダブルディーは冷たく言い放った。

「…ではあなた、私に抱かれますか?」

「は?」

あまりに突拍子のない言葉に、夫人は何を言われたのか瞬時に理解できなかった。

「報酬はサミール侯爵の落胆した顔が見られれば十分ですよ。愛妻家で名の通っている侯爵が、あなたが私に身をゆだねたと知ったら

どんな顔をなさるでしょうね。あ、それか娘さんの指を2,3本切り落として私にいただけるというのでもよいでしょう。侯爵様ほどの名家の

ご令嬢でも、良家に嫁ぐのはなかなか困難になるでしょうねぇ。」

笑むでもなく、苛立っているでもなく、ただ思いついたという感情の読めない顔でつらつらととんでもない報酬を求める目の前の男に、女性は

ただうなだれるしかなかった。

彼の他に、彼女の宝を救える者はこの国にいなかったのだから。

「お願いいたします。娘をお助けください。私は…何でもいたします。」

 

 

 

夫人が乗ってきた馬車に揺られ、ダブルディーは夫人とともに侯爵邸へ向かった。

馬車は程なくして侯爵邸へ到着し、彼は愛用の鞄を携え降り立った。

夫人に屋敷内を案内され、件の娘の部屋へと入室すると、ダブルディーはさっさと診察にあたった。

豪奢な部屋の大きなベットに横たわる小さな少女の顔からは血の気がうせていて、浅い呼吸を繰り返していた。

法医は少女の腕を取って脈を測り、額や腹部をなで始めた。

するといつの間にか法医の躰は紅い光に包まれていた。

否、赤黒い煙のようなものがその躰から立ち上っていた。

横顔からちらりと垣間見えるその長い前髪の下の瞳もまた紅く光っていた。

その形相はさながら悪魔のようではないか。

法医の背後からぼんやりと眺めながめていた夫人は思った。

この男は、娘に、何をするつもり?

そうだ、この男はもともと夫の事を快く思っていなかったのだ!

夫を落胆させる為だけに、私を手籠めにするか娘の指を切り落として持って来いと言っていたではないか!

ここで娘を殺しても、この男にとっては同じことなのだ!

この男は娘を殺しに来たのだ!

そう思い立ったらもう止まらなかった。

化粧台の引き出しが開いていた。

自身でもいつの間に持ち出したのかわからないが、気付けばその手にはさみを握っていた。

ふらふらと男に近寄り距離を詰め、一気にその背にぶつかった。

じわりと男の背中に赤いしみが広がり、その体が傾き前のめりにベッドへと倒れこむと、娘と目があった。

ずっと眠り続けていた、愛娘と。

「…ママ?」

きょとん、と不思議な物を見るような目で自身を見つめる娘を見て、夫人は混乱した。

娘は助かった、回復したのだ!

自分は、何をした?

「あ…ああぁぁぁああ!」

殺した!

娘を助けてくれた恩人を!

それも国王の寵を一身に受けるこの国一の法医を!

とんでもないことをしてしまった!

自分も、娘も、夫も、もうこの国で生きていけないのではないか!

その場に崩れ落ち、茫然としていると、場違いなほど飄々とした声がした。

「やれやれ、本当にこの国の礼儀は理解しがたい。」

見上げると、信じられない光景が目の前にあった。

男が立ち上がり自力ではさみを引き抜くと、一気に血飛沫が飛び散り、ともすればその血が、逆流している。

彼の血を一滴も無駄にすることは許さないとでもいうかのように、白衣に染みついた血の跡すらもその傷口に

吸い込まれ、消えてなくなった。

残ったのは彼の衣服の背に開いた穴と、はさみだけだった。

「な、何が…。」

「本当にこの国の人間は野蛮で恐ろしい。こんなところはとっととお暇させていただきたいものです。まぁ、貴女の行いで、

この力はうまく働くでしょうね。では私はこれで。」

つまらなそうにそう言って部屋を出ていこうとする法医に、夫人は声を絞り出した。

「あ…では…馬車を…」

「結構です。その辺で乗合馬車でも捕まえますよ。どうか二度と私の前に顔を出さないでください。お代はそれで結構。」

振り返りもせず、早口に言い放って法医は屋敷を出て行った。

残された夫人は依頼通り回復した娘を抱きしめて泣くことしかできなかった。

 

 

 

大通りで乗合馬車を捕まえほっと一息つくと、法医は一人ごちた。

「本当に、こんな国、大嫌いだ。」

それが、彼の秘術の力の源であった。

 

 

 

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