第1話
その国は、栄えていた。
戦争を仕掛け、侵略を続け、国土を拡張し続ける軍事国家パールファイディ。
未だその侵攻を止められるものは現れない。
その王は、病んでいた。
戦場の熱気と失われる命、流れる赤に欲を示す。
ただそのためだけに戦を起こすとまでささやかれた彼の興味は、自身の赤にまで及んだ。
激しい痛み、流れ出る血、こぼれおちる命、そのぎりぎりの境界線にいることが彼を興奮させた。
そしてその瀬戸際に何度も立ち入れるのは、ある男の力によるものであった。
その男は、諦めていた。
天才法医と称された彼は、勉学と経験によって修められる医療技術と勉学と遺伝と才能によって
修められる法術の両方を習得し、死者をも甦らせると畏怖されていた。
しかし彼には、甦らせたい者などとうにいなくなってしまっていた。
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コンコン、とドアがノックされ、長い脚を机に投げ出し椅子にふかく沈んでいた男は、けだるそうに答えた。
「どうぞ」
部屋の主に了承を得、まだ若い兵士が転げそうな勢いで慌てふためきながら飛び込んできた。
「ド、ドドドクター、た、大変です!陛下が・・・!陛下が重傷で・・・!すぐにドクターを連れてくるようにと仰せです!」
「わかった。すぐに行くと伝えろ。」
「はっ!ありがとうございます!」
兵士はドクターと呼んだ気難しいと評判の白衣の男が、己の要請に答えてくれたことに喜び、部屋を後にした。
あとに残された男はつまらなそうにひとりごちる。
「私を連れて来い、と言われたのに一人で戻ったのでは、陛下のご不興を買うのではないかなぁ。」
彼の王は戦場だけに限らず、流れる赤、吹き出す赤が大好物であった。
兵士は、その王に恰好の口実を与えたに違いない。
しかし彼にはどうでもよいことであった。
薄手の白い綿の手袋を両手にはめ、腰まである長い髪を結い、洗いあがったばかりの白衣を羽織り、
ゆったりとした足取りで、男は豪奢な扉の前に立った。
はぁ、とふかい溜息をつき、白衣の襟を両手で引っ張りパン、と小気味よい音をたてて直し、そのドアを叩く。
「陛下、ディナイーテガルトにございます。お呼びでしょうか。」
「おお、ダブルディー。待っていた、入れ。」
ドクター・ディナリーテガルト、略してダブルディーとは彼の王が好んで使う愛称であった。
しかし、王のほかにそう呼ぶ者は皆無であった。
彼はこの国で、彼の王以外との交流がなかったからだ。
豪奢な扉を開けると、中はさらに華美であり、目もくらむような赤と金で統一された空間であった。
部屋の奥の寝具の上には、まさに死地へ赴く寸前の患者が横たわっていた。
部屋の装飾の異常さもさることながら、その者はさらに異様であった。
瀕死、という言葉で形容されるに相応しい重体であるのに、その表情は恍惚としていた。
気色悪い、そう思うことさえとうに彼は手放していた。
彼がここにとどまる理由は、この王にしかないのだから。
「失礼いたします。」
そういってダブルディーは彼の王のそば近くに寄り、王の容体を確認していく。
「これはまた・・・派手にやられましたね。」
そうつぶやきながら傷を触診している法医を見つめ、患者はゆがんだ笑みを見せた。
「お前が来ないからだぞ、ダブルディー。ミッドリティシアでは何の役にもたたなんだ。とにかく城に戻ってお前に診せろの
一点張りだ。やはり行軍にはお前がいなくてはな。」
醜悪な笑みを浮かべる患者に医師はなんの感情も込めずにささやいた。
「今回は陛下の仰せで別件の用事をこなしていたまでです。お呼びとあらばいつでも参じます。それにミッドリティシア殿は
医師としては有能です。何の役にも立たぬといわれてはあまりに哀れです。法医としては駆け出しですがね。」
「ははは、お前にかかっては誰であろうと駆け出しであろうな!」
瀕死の重体にもかかわらず豪快に笑う王に、ダブルディーは容赦なく施術を開始した。
「では」
そういって彼はカバンから赤と緑と青の宝玉を取り出し、無遠慮に王の傷口へねじ込む。
「ふ・・・ぅう。」
たまらず王の口からうめき声が漏れたが、気にも留めずにダブルディーは手で印を結びながら普段よりも幾分低い声で呪を唱えた。
その呪に応えるかのように埋め込まれた傷口の下で宝玉が明滅する。
決まった印、決まった文言、それに受け継がれる血統、あとは本人に才があれば、見合った結果がもたらされる。
そのあまりに醜悪で美しい光景は、否応なしに見るものを惹きつけた。
こればかりは選ばれし者にしかなし得ぬ所業であった。
そして彼は、その中でも天才の名を欲しいままにしていた。
しかし、これではダメだな。
血が流れすぎているし、何より負傷してから時間が経ちすぎている。
はぁ、とため息をつき、ダブルディーは大きく息を吸い込み、自身の身の内の力を叩き起こした。
ダブルディーの長い前髪の下の瞳が真紅に光り、その躰から紅い煙のような光が立ち上る。
そして、その眼で見つめるだけで、みるみるうちに王の傷は癒えていった。
かすり傷一つ、残すことなく。
ダブルディーが天才、と言われる所以はこちらの御業だった。
わずかに疲労の色を見せ、ダブルディーは息をついて言った。
「終わりました。お加減はいかがですか?」
「さすがだな、ダブルディー!傷を負う前より気分がよいぞ!」
そう言って王はダブルディーの結った長い髪を引いて自らの顔を寄せた。
「その長い前髪はいつまで伸ばすのだ?私はその美しい瞳を見たいといつも思っている。お前なら寝所に侍らせてもいいと思うほどにな。」
王が毎夜違う女を寝所に侍らせていることは有名であったが、まさか男の自分までそのような目で見られているとは思ってもみなかった。
しかし、汚らわしい、そう思うことさえダブルディーは飽きていた。
「陛下、私の眼は傷や病を検分する為の汚れた物。陛下のお目にかけるような物ではございません。」
そう言ってダブルディーはそっと彼の王の手から自らの髪を取り戻した。
そんな法医の様を見て、王は豪快に笑った。
「はっはっは!冗談だ!お前に嫌われては私は戦場で思う存分に暴れられなくなってしまう!お前の嫌がることはせぬ!」
「お心遣い、いたみいります。」
そして法医の妙技により死地の淵より完全に回復した王は上機嫌で彼を褒め称える。
「どうだ?そろそろなんぞ欲しいものでもないのか?何でも褒美をとらすぞ?」
しかし法医はにべもなく断った。
「いえ、私はすでに陛下よりこの身に余るほどの褒美をいただいております。」
「まったくお前は欲がない!そこがまた好ましくもあるが、わしに褒美を与える楽しみを与えてくれぬのだなぁ!」
「恐れ入ります。」
豪快に笑う王を一瞥し、法医は深く頭を下げた。
「それでは私はこれで。あまりご無理はなさいませんよう。失礼いたします。」
それ以上王に口を挟ませる隙を与えず、法医は早口で言いながら部屋を出た。
ザァアアアアアアア・・・
自室に戻った法医はすぐさま血で汚れた白衣と手袋を浴室のバスタブに放り込み、熱いシャワーを注ぎ込んだ。
洗濯物は毎日メイドが回収してはきれいに洗い上げ、ぴっちりとアイロンをかけて届けてくれていたが、こればかりは気味が悪いと
いい顔をしない者が後を絶たなかったため、はれ物に触るように扱われるくらいなら、といつのころからか自ら処理するようになっていた。
ただの血が付いた洗濯物ならばいざ知らず、あの王の血にまみれた白衣となると、ある話ではその血に触れると呪われるだとか
またある話では王と同じように血を求めるようになるだとかの噂が独り歩きを続け、皆戦々恐々とするのであった。
それほどまでに、彼と彼の王は恐れられ、孤立していた。
バスタブに徐々に湯が溜まり、白衣と手袋から赤い色が染みだしてくる。
赤い、湯があふれ出し、彼の視界も真っ赤に染まっていった。
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ドーン、ドゴーン・・・
砲撃の音と打ち出された球が地面や建物にぶつかり、粉じんが舞い、火の手が上がる。
目を閉じると昨日のことのように鮮明に思い出されるこの光景。
ああ、ダメだ、そっちは・・・
目の前が真っ赤に染まる。
赤・赤・赤
「・・・!」
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声にならない叫びで、我に返ったときには、バスタブの湯が浴室の床にあふれ、自身もその水浸しの床につかっていた。
重い頭をもたげ、身を起こすと、どっと倦怠感がのしかかる。
しかし幸いなことに頭を強く打ったわけではなさそうだ。
この状況が何を意味しているのかはわかる。
「排水溝が詰まっているじゃないか。メイドは何をしているんだ。」
びちゃびちゃと間の抜けた音を立てる、排水溝に詰まったくずに舌打ちをする。
「まぁ・・・どうでもいいか。」
そうひとりごち、法医は立ち上がって荒っぽく白衣と手袋を洗い、へくしっと小さくくしゃみをする。
「この体も風邪くらいはひけるのか・・・まぁ、どうでもいい。」
そんなダブルディーの独り言に、答えるものはこの国には皆無であった。